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美の基準とミス・ユニバースと美女 

世界で最も権威があるとされるミスコンのミスユニバースに森理世さんが選ばれました。このコンテストの審査の際に、どのような基準に基づいてこの女性が一番良いと判断するのかというニュースがあったので、面白いと思い取り上げてみます。

それによれば、

広報担当のエスセール・スワンさんによると、水着審査で健康的な肉体、ドレス審査で着こなしと表現力、面接で内面の美しさが審査される。「(全世界の女性が)手本とすべき女性」を探しており、審査基準は55年間変わっていないという。


だそうです。
またその他にも、

ミス・ユニバースの特徴の一つは普段の生活態度、特に人との接し方が観察されていることにある。審査会は1日だけだが、各国の代表はほぼ1カ月前に開催国に入る。今年の場合、77人の美女たちは5月2日にメキシコに結集し、審査会当日の28日まで各地で現地住民と交流したり、HIV(エイズ・ウイルス)撲滅のチャリティー・オークションに参加した。初対面の人ともうまくコミュニケーションできるか、疲れた時でも積極的でいられるか、が試されているというのだ。


とのことで、人とのコミュニケーション能力に重点を置いているようです。

なるほどなー、それじゃアニオタニートでひきこもりの私が選ばれないわけだと思ってしまいましたが、実はこれって凄く恐ろしいことなんじゃないのかなと。

水着審査やドレス審査でわかる外面的な美に対して、人を外見で判断するのか!といった反論や反感というのはよく耳にしますが、じゃあ格好なんてどうでもいいよねということで、私が就職活動の面接にスーツではなくて短パンにビーチサンダルというナウい格好をして行ったら100%落とされるでしょう。
いくらこれが地球温暖化を抑止するためのクールビズの正しい姿なんだと力説したところで、話せば話すだけ病院を紹介される確率が高まるだけです。

もちろんここで問題されているのはそういうことではありません。外見は大雑把にいって2種類あって、努力して変えることが出来る部分と変えられない部分だと思います。
上で書いた様な服装なんかは簡単に変えることが出来る(とされている)部分なので、場面場面で非難されたり評価されたりします。子供と外で遊ぶボランティアにスーツ姿で行ったら、遊ぶ気ないんだと思われ非難されます。
こうした意味での外見は、いわば内面の反映として捉えられるからです。つまり、マナー礼儀という範疇に還元されます。マナー礼儀は結局のところ内面的な要素であるので、外見内面を判断していると言う事ができそうです。就職活動のようなきちんとしなければならない場面に、ラフな格好で行くことは一般的にタブーとされているので、駄目なのです。

また賛否両論分かれますが、太っている人に対する社会的評価も同じようではないでしょうか。もちろん遺伝的な部分もあるので一概には言えませんが、太る/痩せるは自身の努力によってコントロールできると考えられています。そして太ることは食欲やライフスタイルを理性的にコントロールできていない外的な証拠として受け止められてしまうので、結局は駄目な人と判断されてしまうようです。特にアメリカなどでは。

それに対して努力ではどうにもならない外面的部分というのがあります。例えば身長や顔の形、目の色、体毛の濃さなどでしょうか。今ではこうした部分も整形手術などによって変えることができてしまうのですが、整形などは世界的に見てもまだ一般的ではありません。今後変わってくるかもしれませんが…。
こうした部分に対して劣勢を付けて評価するというのはかなりの反感を買うことになります。変えられない部分に対して悪い評価を与えられても、それはもう変更できないんだから評価するな、ということでしょうか。これは比較的同意を得やすい感情だと思います。
なぜ同意を得やすいかというと、人間の本質的で普遍的な部分に関わることだからだと思います。
つまり、変えられない部分に対する評価が実は内面的に非常に効果を与えるということです。

例えば悪口、いじめの言葉には「ブス・不細工」のような直接的に外見を表現するものがあります。もっと具体的に言えば、「目が離れすぎててサカナみてー」とか「エラ張りすぎててサカナみてー」「生臭くてサカナみてー」など。別に魚嫌いなわけじゃないですよ…。
こうした言葉は思春期の子供たちにとって大ダメージを与えます。いじめている側にも「(変えられない部分の)外見の悪口はキツイ」という思いがあるので成せる技だと思います。
このような外見への評価で一喜一憂するのはアイデンティティが確立されてない子供という証拠だと大人は思うかも知れませんが、しかし大人も同じように「ハゲ」を隠したり「体臭」を気にして香水を手放せなかったり「体毛」を除去するのに莫大なお金をかけてエステに通ったり、自分の外面的な部分に対して非常にナイーブです。

私はこの「変えられない外見」こそが人間にとって本質的な部分ではないかと思ったりしています。
本質とは何だねワトソン君、なんて聞かれても答えられないのですが、外面の評価に非常に敏感になっているのはその評価が内面に与える影響が大きいからです。内面、心、気持ち、に多大な影響をもたらしてしまう外見というのは人間にとって大事な大切な部分だと言わざるを得ません。
これは何より外面の「変更不可能性」によるものだと思います。つまりそれが変更できないからこそ、一生その外見と付き合っていかなければならないからこそ、それが重要になってしまうのです。
変えられない部分こそに価値があるとする立場と言い換えてもいいかも知れません。

つまり、外見で人を判断するな!というような言説は、「本質的だけどもう変更不可能な部分に優劣をつけられても傷つけるだけでどうしようもないんだから、それより変更可能などうでもいい部分を評価してくれ!それなら努力次第で優秀になれる可能性もあるんだから!」と受け止めることができるのではないでしょうか。

今回のミスユニバースの評価基準は「変更可能などうでもいい部分」に重きを置いています。
会社の就職面接などの服装も実際には「変更可能などうでもいい部分」に過ぎず、本当にそこで判断されているのは「私はちゃんとした身なりで公的な場にでるという常識を身につけています。常識を作り出した社会の中で、その常識からはみ出すことなく生きていけますよ。つまり会社の決めてくださったルールの中で問題を起こすこともなく、服従し続けることができますよ。」という意思表示の有無です。

これはとても怖いことじゃないのかなと。
あえて権威側が「変更可能な部分」を評価する評価基準を持ち出すことで、被権威側は自分の「変更可能な部分」をその評価基準に照らし合わせて変更することが要請されているわけです。そうやって権威が必要としている人間が画一的に生産されていく。
今回のミスコンで言えば、初対面の人ともうまくコミュニケーションできて、疲れた時でも積極的でいられる人が生産されていく。でもそこで評価されているのはコミュニケーションが取れる取れないの「どうでもいい部分」ではなくて、「我々が設定した評価基準にきちんと従っているかどうか」なわけです。
つまり内面とは服従の意思です。

とまぁ長々と書きましたけどどうでもいいですね。
他人に評価されたい、認めてもらいたいという承認欲望は誰にでもあると思います。簡単なのは他人に評価基準を作ってもらってそれに従うことです。そこでは評価する側とされる側の利害関係が一致しているので問題ないとは思いますけど。
でも果たしてそれで本当に幸せなのかなーと疑問ではあります。

ちなみに日本のいじめは陰湿で言葉によるものが多く、証拠を残さないとか言われていたのに対して、アメリカのいじめは暴力的なものが多い、なんて比較を大昔に聞いたことがあります。
日本のいじめの実態を知らないのでなんとも言えませんが、いじめが言葉によるものだとしたら、その言葉はどういったものが多いのか知りたいとこです。きっと外見に関する言葉の暴力が多いんじゃないかな。それは結構本質的に人間を理解してたんじゃないかな。

絶世の美女なんて言い方がありますが、あれは変更不可能な外見の評価だったと思います。
でも時代が流れて科学技術の発達が進んで、整形とかプチ整形とかで変更不可能な部分に手が加えられるようになってくると、そうした美女像は消えてしまったんじゃないかな。そこで評価されてたのは文化に対峙する「手付かずのままの自然」だったんじゃないかなーと思ったり。
整形技術がますます進歩して、誰でも簡単になりたい顔になれるような時代になったら逆に変更不可能な部分を探し始めるんじゃないかな。

…かな。を連発して終わらせる。

ミス・ユニバース “世界一の美女”の基準は?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070608-00000022-maip-soci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070608-00000022-maip-soci&kz=soci

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